人としての道を大切に!目に見えない正義
私たち人間の生命は、宇宙生命と同一です。
宇宙生命を広大な海に例えた場合、人間は 波のような存在。
波は 海そのものです。海の働きについた名前でしかありません。
私たちは宇宙生命に変化をもたらす「働き」としての役割があります。
だから、あたかも別の存在がいるかのように 「他者」が生じ、人と人の縁が生まれてくるのだと思います。
時には衝突し、時には励まし合い、共に助け合い・・・
様々な形で 他者と関わり続けることで、変化が生まれます。
だから人間は、「個の生命」である必要があるのだと思います。
人間には 自我があります。
自我とは、自分を自分と意識する心。
自分は自分だと思うから、他者を自分とは違うと意識するのでしょう。
つまり、人間が人間である以上、
本来は、他者も 私と同じ生命だと 頭では理解しても、意識で感じることは難しいのだと思います。
心理学では、人間には帰属的欲求と、分離的欲求があると捉えます。
このどちらに偏りすぎても、良くないと思われます。
宇宙生命と一体化しようと考えてしまえば、人間として生まれてきた意味から遠ざかります。
個の生命を意識しすぎたら、自分だけ良ければという心が強まってしまい、他者との分断を生んでしまいます。
これらを考慮した場合・・・
他者を他者のまま、自分と同じように大切にする生き方が、最も理想的なのだと思います。
だから、他者の為に生きる生き方が、何よりも尊く、
それができる境涯の人が、真の幸福を掴んでいけるのでしょう。
さて、最近のネットニュースを見ていると、
明らかに悪だと思われることが、法で裁かれないケースばかりを目にします。
このようなネタは 注目を浴びるので、あえてクローズアップされているという側面もあるかもしれませんが・・・。
何かが根本的に間違えている。
多くの人が、そう感じつつも、何をしたら変えられるかも、わからないのではないでしょうか?
例えば、災害ボランティアにおける議論を、よく耳にします。
ボランティアに参加することは、例えどんな個人的な目的があったとしても、
社会的には評価されることであるのは、間違えありません。
しかし、中には、個人の名声のため、何かの見返りのためという、
本来の人助けとは異なる目的で 動いている人も いると思います。
もちろん、人の心の中は、判定できるものではありません。
だから、法では 正邪を測れないのでしょう。
でも、生命の世界では違います。
同じボランティアという行為でも、
自分の為の行動なのか、本当に 困っている人の為に 動いているのかは、
その人の「生命の現在地」 すなわち境涯によって、全く変わってくるはずです。
ここで、何かしら 他者を傷付けていたり、大きな迷惑をかけるようなことがあったら、
間違えなく「悪業」を積むでしょう。
この他者とは、現地の人々だけとは限りません。
自分の身近な人、その情報を受け取り、何かを感じた人なども含まれます。
生命の世界では、現実的な立場などは関係なく、
シンプルに「他者にとってプラスの行いか、マイナスの行いか」というだけの基準になるはずだからです。
もう一つの問題も生じてきます。
ボランティアに行かない人は 悪なのか?という話にもなってきます。
自分がボランティアに行けないからと、負い目を感じ、自分を責める人も出てくると思います。
これも立派な、傷付いている事例の一つです。
これは日本にありがちな傾向です。
日本は、小さな集団で協力し合いながら生きてきた歴史があるので、
個人の欲よりも、集団のルールを重んじる傾向があります。
だから、何かしらの正義が語られる時、
同調圧力がかかるのが 常のように思われます。
これこそ日本特有の、民族としての 過去世からの共業なのではないでしょうか。
悩みや苦しみには、大きい小さいも、重いも軽いもありません。
他者から見たら、些細な悩みに見えるようなことだとしても、
本人にとっては、耐え難い苦しみを感じている人は、たくさんいます。
そんな身近な人に寄り添って、同苦しながら、生きていく。
他者の為に生きることは、
「人としての正しい道」の生き方です。
他者の心を尊重し、他者に感謝される生き方。
まさに自身の生命にとってプラスの「善業」を増やしていく生き方です。
そして、他者と共に成長し、共に幸福への大道を歩んでいく人生・・・
これこそが、希望の未来を創り上げていく道なのだと思います。
人間は、ひとりで生きていく生命ではありません。