輪廻転生、生まれ変わりとは?生命の状態とは?

思想/哲学

輪廻転生、死後の世界は?生まれ変わりとは?

人は死んだら、新しい世界に生まれ変わるというのが、今では当たり前に受け入れられていますね。

人は死んだ後にどうなるのか・・・
科学でも証明しきれない、見えない世界の謎ではありますが、
死後をイメージすることは、無意味なことではなく、
その捉え方によって、今の生き方にも大きな影響を与えてくるはずです。

人は、どういう生死観を持っているかにより、今を生きる活力が変わってきます。

近年では、人が輪廻転生する、様々な空想物語があり、興味の対象として、関心が高まっているようですね。
中には「何回目の人生か」というように、過去世の記憶を そのまま受け継いで 生まれ変わる物語もあります。
様々な手法での 過去世リーディングも注目されており、「人はこれまで 何回生まれ変わっている」 というように、あたかも回数までわかっているかのように言う人もいます。

同じ「生まれ変わり論」でも、内容は様々ですね。

さて輪廻転生といえば、仏教に始まった概念のように思われていますが、
実際は、更に古い時代からあった思想で、主流の起源は、古代インド哲学にあります。

仏教を説いた釈迦も、当時の常識であった概念を元にして、人々に理解できるように、段階的に法を説いてきたことがわかります。

古代インド哲学においては、人は生きている時の行いによって、死後、別の世界に生まれ変わると考えられていました。
初期の仏教でも、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の、六つの世界が語られました。
(仏教以前では、修羅界を除く、五界とされていたそうです)

地獄界は、罪を償うための、まさに地獄の世界。
餓鬼界は、鬼の姿で、何かに満たされずに苦しみ続ける世界。
畜生界は、動物や虫などの世界。弱肉強食で、苦しみを受けて死ぬ世界。
修羅界は、争いが絶えず、怒りと苦しみに包まれた世界。
人界は、人間が住む世界ではあるが、四苦八苦に悩み続ける世界。
天界は、天人が住む世界で、享楽を受けることができるが、最後は苦しみを受け、別の世界に落ちるという。

こうしてみると、どの世界にも苦しみが伴い、幸せとはほど遠いことがわかりますね。
天界の苦しさがわかりにくいかもしれませんが、浦島太郎をイメージするとよいでしょう。

このように生まれ変わっても、住む世界が変わるだけで、永遠にぐるぐる回るように生まれ変わり、苦しみが続くと考えられていたのです。
人として生まれても、悩みや苦しみばかりだけど、まだ他よりマシでしょ・・・?
悪いことをしたら、次は畜生に生まれ変わっちゃうよ・・・
という道徳感になっていたと想像できますね。

思想が、生き方にも影響するということを、イメージできますか?

転生とは、言葉のとおり、生まれ変わることですが、
輪廻とは、ぐるぐる回るように、世界が変わり続けるという意味で、言葉の意味としては、あまりよいことではないですね。

古代インドでは、こうした苦しみの連鎖である、輪廻から抜け出すことを修行の目的にしていたといいます。

釈迦もまた、人生の苦しみから開放される、真実の法を求めて出家しました。

人は、自分のことばかり考えて生きていたら、六道の苦しみを感じ続けることになる。
つまり、六道を輪廻することになります。

そして六道といっても、各々 別の世界があるわけではなく、すべては 人の心の中にある世界、
すなわち「生命の状態」であることを悟られました。

もちろん今でも、自分の欲だけを追求し、日々を過ごしている人は、六道を輪廻しているような生き方をしているはずです。
時には、天界の生命状態で、束の間の幸せを感じることもあるかもしれません。しかし、努力や成長がない天界の状態は、すぐに他の生命状態に落ちてしまいます。

人間は、真実を求めて探究したり、心の成長を求めて努力することができます。
更には、自分の幸せだけを求めるのではなく、他者の幸福のために生きることもできます。
ここが他の動物との大きな違いです。

こうして、六道の生命を超えた、声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の 四つの生命状態を加え、
十界の生命が、心の中に備わっていると説かれていきます。

繰り返しますが、これら各界は、初期仏教で思われていたような、別の世界が存在するものではありません。
だから死後に、別の世界に生まれ変わるというものではないことがわかります。

すべては人の心に備わった、生命の状態であり、
何かの出来事や、何かの思考など、何かの変化に縁することで、
常に変化し続けている「生命の動き」を、十の種類に分けて説かれました。

これは、釈迦のような仏といわれる人であっても、地獄界などの生命があることを意味し、
私たちのような未熟な人間でも、菩薩界や仏界という、清らかな生命を秘めていることになります。

だから、どんな人であっても、何か衝撃的なアクシデントなどの不幸に直面したら、地獄界の生命状態になり、
まさに地獄の苦しみを味わうことになるのです。
何か気の触ることを言われたら、修羅界の生命状態になり、怒りに包まれることだってあるのです。

こうして瞬間、瞬間、変わり続ける、生命の状態の変化に目を向けなければ、
人の心を理解することなどできないと思います。

もちろん地獄界の生命状態に落ちることは、その人が悪いとは限らず、
そこから立ち直ることが大切なのだとわかります。

釈迦も、六道の、いわゆる低い生命状態ですら、否定はしておりません。
変化し続ける生命こそが、私たち人間の本質なのですから。

むしろ、より高い生命状態を目指すための生き方を求め、
より強い生命の力で、自身の心の中にある「弱い心」をコントロールしていく生き方を説かれました。

これを現実の生活に置き換えて考えてみると、
生命状態が 落ちてしまった人が 近くにいた場合は、自力で立ち直ることが 困難な場合もあるため、
周りの人が、支えてサポートしてあげることが大切だとわかります。

ここで大切なことは、相手の状態は周りからもわかると思うので、状況を見守り続けることです。
例えば、天にものぼるような幸せな状態が長く続かないと同じように、いつまでも地獄の状態が続くものでもありません。
何か具体的な行動のアドバイスは、生命状態が前向きになった時を見計らうとよいでしょう。

例えば、修羅のように怒りが満ちている時に、何かのアドバイスをしても、冷静に受け止められるものではありません。火に油を注ぐ状況になったり、時には逆ギレされたり、飛び火してくるかもしれませんね^^;

こうして言葉にすれば、決して難しいことではないのです。
でもこうした配慮は、相手の心を尊重し、相手の幸せを願うからこそできること。
どんな人の心の中にも、宇宙生命に繋がった「善の心」があることを理解し、時には 忍耐強く見守ってあげることも大切だと思います。

実際には、この簡単なことができていない場合も多いと思われます。
生命状態が 落ちている人に対し、状態が普通の人だから できるような対処方法や、努力を促すなど、いわゆる正論をかざしても、通じるわけがありません。
恐らくは、アドバイスする側が、他者の立場になれておらず、自らの物差しでしか周りを見れていないのだと思います。

このような違いが、どんな思想を持っているかによって、生き方の違いとして現れてくるのでしょう。

これまで、量子論や心理学など科学的な見地からの考察、
さらには占星術や、過去世リーディングなどを通した、生命の傾向性などの話をしてきましたが、
これらには、人間の、瞬間瞬間、変化し続ける、生命の状態や、生命のエネルギーといった観点は、全く考慮されていません。
そういう意味では、生命の本質の 部分観であったと言えるでしょう。

人の心というものは もっと複雑で、常に変化していくもの。
ましてや、人生の岐路に立つような悩みや苦しみを克服していくためには、不十分であったかもしれません。

生命の状態や、生命のエネルギーという観点は、その知識がない限り、見落としている人が 多い概念だとも思います。
そして、ここにこそ、私たちが悩みや困難を乗り越え、幸福をつかんでいく為の鍵が、隠されているのです・・・。