生命のエネルギーと、生命の現在地の関係性

思想/哲学

生命のエネルギーと、生命の現在地の関係性

人間の心の中には、自分を奮い立たせる、何かのエネルギーがあります。

そのエネルギーとは何なのか・・・
もちろん科学的に証明できるものではありませんが、
誰もが、確かに「エネルギーが存在する」ということは 実感できるのではないでしょうか?

ある人は、このエネルギーを「愛の力」だと表現します。
「未来への希望のエネルギー」と言う人もいます。

言葉の違いこそありますが、
心が優しさに包まれた時、
前を向いて、未来に進もうとする時に、
エネルギーが高まるのは、間違えないように思います。

さて、そもそも生き物には、生きるのに必要な、生存の為のエネルギーがあります。

そして「地獄の生命状態」に陥った時には、このエネルギーさえも奪われてしまうことがあります。
具体的には、立ち上がる気力もない、食事をする気にもならない、というように・・・。

普通の日常を過ごすだけでも、それ相当の エネルギーは必要。
少し心が弱っている時は、些細な出来事や、他人の言葉で、
すぐに心が落ちていくのは、誰もが経験しているのではないでしょうか?

怒りに包まれ、攻撃的になることは、
それなりにエネルギーが高いからこそできること。
エネルギーの質が、好ましくはないかもしれませんが。

怒りに満ちた「修羅の生命状態」は、
もしかしたら自分でも気が付いていない無意識の内に、
何かに対する、恐れや不安を抱えていることが多いようです。
攻撃的なエネルギーは、一見、強いエネルギーに見えますが、
生命のエネルギーという観点からしたら、まだまだ弱いものと言えるでしょう。

それでは、どんな時に、生命のエネルギーが高まるのでしょうか?
理屈を 抜きに、自身の経験を思い返してみてください。

恐らくは、他者の為に、何かの行動を起こしている時 ではないでしょうか?

自分の立場や欲なども頭から消え、
純粋に他者の幸福を願う。
その為に、自分にできる事はないかと 模索し、

できる限り、精一杯の行動に移す。

もしかしたら、自分は自分で、何かの悩みを抱えているかもしれません。
でもきっと、自分の悩みを忘れるかのように、
他者の為に という想いが 高まっているのではないでしょうか?

これこそが、生命のエネルギーの 本質なのだと思います。

他者の為に生きる時、
もはや自分の小さなエゴや、欲は、自然と消え去ってしまうでしょう。
まさに、心の中が「菩薩の生命状態」に包まれた状態です。

どんな境涯にも、地獄の生命も、修羅の生命も備わっていて、
これらを完全に無くすことはできません。

宇宙生命や、地球の生命にも、様々な「生命の状態」があるのは明白であり、
そうでなければ、大きな自然災害が起こる理由など説明ができません。
宇宙生命は、本質的に、私たちが不幸になることを望んでなどいないはずですから。

だから、他者の為に生きていても、怒りの気持ちや、悩みなども起きるはず。
でも、自分の欲の為の怒りではなく、
幸福を阻害する不当な社会に対する怒りであったり、
他者を苦しめる状況に対する怒りであったりと、
同じ「怒り」でも、その質が全く変わってくるのだと思います。

これこそが境涯の違いです。
そして、高い境涯の時に 高まるエネルギーこそが、
生命のエネルギーの 本質なのではないでしょうか。

私たちの生命は、本来は宇宙生命と同一です。
個の人間としての私たちの心の中にも、宇宙生命の限りないエネルギーは存在しているはず。

私たちの意識の中にある 大感情が、
宇宙生命の意識と 合致した時・・・

心の底から 湧き出すような 生命エネルギーに、包まれていくのです。