真の幸福を掴む為に!より高い生命の現在地を目指して
日々の日常の中で、常に変化し続ける「生命の状態」・・・
私たちの心は、一定ではなく、何かの縁にふれることで、変わり続けています。
そして、自分がどのような生命の状態にいることが多いか・・・
自分のベースとなる生命の状態を「境涯」といい、これを「生命の現在地」とも呼びます。
古代インドの世界観では、人間は、どのような生き方をしたかによって、生まれ変わる世界が決まると信じられていました。
地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の 六道を輪廻するように、生まれ変わっても 永遠に苦しみ続けるため、六道輪廻の輪から 抜け出すことを目指し、修行していたといいます。
人生の苦難から抜け出し、幸福な人生を送るための法を求めた釈迦は、
六道の境涯を超えた、四聖の生命を見出しました。
仏教では、人間の生命は、十界という、十種類の状態に変化し続けると説かれます。
これを境涯の観点から捉えた場合は、迷いの生命である 六道に対し、四聖は、覚りに近づいていく生命といえるでしょう。
四聖を学ぶことは、人間が、人間らしく生きる道を知ることであり、
結果的には、過去世からの業の試練や、耐え難い悩みや苦しみを乗り越えていくための、具体的なヒントになるはずです。
この世界には、目に見えないもの、まだ解明されていない力がたくさん存在します。
むしろ、目に見えて、科学的に判明しているものの方が少ないかもしれません。
目に見えないものの代表は 心です。
心はどこにあるのか?どういう仕組みなのか?科学ではまだ何もわかっていません。
でも心は「確かにある」ことは疑いようもなく、
科学で解明されていないからと、無視できるものではありません。
だから太古の昔から、人々は「まだわからない何か」を求めてきました。
いわゆる真実を探究する心は、今に始まったことではありません。
むしろ、生活が豊かになった今の時代は、目の前の刹那的な快楽に溺れてしまい、
真実を探究する心が薄れているかもしれません。
畜生界の境涯のことですね。
だから、世の中が右肩下がりに落ちていき、
悩みや困難が増えている現状は、真実に目が向き始めるきっかけになるのかもしれません。
こう考えると、日本人として生まれた私たちには、
新しい時代の世界を開拓していく使命があるような気がしてきます。
このように、真実を探究する生命の状態を「声聞界」といい、
真実の一部を自覚した生命の状態を「縁覚界」といいます。
声聞界、縁覚界の意味を、仏教の教えから正確に捉えれば、
現実世界のあらゆるものは、すべての縁によって生じており、常に変化し続けるものだと理解し、目の前の現実のみに 執着する心から 乗り超えていく生命 という意味になるそうです。
また別の機会に詳しく考えてみたいテーマですが、
この言葉から何かを感じてみてください。
声聞界と縁覚界の二つをまとめて「二乗」と呼びます。
本来の二乗は、一流の学者のレベルの人を指し、私たちのようなものが届く境涯ではないのですが、
精神性の探究に関心が高い人は、二乗の傾向性があると捉えていいかなと思います。
次に菩薩界を簡単に言えば、他者のために生きる 生き方ができる境涯です。
仏教は、真実を説いた哲学というだけではありません。
具体的な生き方を、幸せになるための実践方法を説いた法です。
それが菩薩としての道に示されています。
仏教の実践については、簡単に語りきるものではありませんし、この場で扱うテーマではないと思っているので、今後も詳しくは語りません。
ただ、自分のために生きているだけでは、いつか行き詰まり、
他者の幸福を願って、行動する心を育てていくことが、
結果的に自分の幸福につながることには間違えないと思います。
最後に仏界ですが、これも言葉にするのが極めて難しいので、
あえて、いつも話している表現で 捉えてみたいと思います。
私たち人間は、本来、宇宙生命と同一の生命です。
だから、すべての人の心の中に、宇宙生命としての心があるということです。
もちろん、常に宇宙生命としての境涯でいられる人など、いるはずがなく、
もしいたら、人間とは呼べなくなってしまうでしょう^^;
だから、私たちが幸福になるための理想の生き方は、
慈悲や慈愛の心で、他者のためという使命感を持って生きること。
自分の生命も、他者の生命も、本来は同じ宇宙生命であることを自覚することで、
他者の生命を、心から尊重できるようになるはず。
慈悲や慈愛といっても、ここから生まれるのだと思います。
六道の境涯よりも、高い境涯とされる二乗にも、大きな問題点はあります。
二乗の傾向性が強い方は、
いわゆる普通の人よりは、勤勉であり、真実への知識や理解度も高いと思います。
目先の欲に囚われて生きているのではなく、未来を見越して、努力しているはずです。
しかし、この傾向性が強くなりすぎると、「自分は他者よりも優れている」と、慢心の心に陥りがちな特徴があります。
そして、「ここまで真実に近づけたのだから十分だ」という心も生まれてしまい、保身に入ってしまいます。
誰よりも真実に近い、二乗の者たちは、
真実には辿り着くことができないという、最大の壁に立ち塞がれてしまうのです。
ここに、究極のヒントが隠されています。
二乗と、菩薩界の決定的な違いは、自分のために生きているか、他者のために生きているかという違いです。
二乗には、真実を求める、清らかな生命はあったとしても、
生命の根本に、「自分が幸せになるため」という心があります。
だから、自分を他者と、分けてしまうのでしょう。
心理学でいう 分離的欲求が 強い生命の状態です。
言い換えれば、宇宙生命から離れようとする心が、強く働いている結果です。
それに対し、菩薩界の、他者を大切にする心は、
自分を犠牲にして、他者に尽くす心とは違います。
自分と他者を分けて捉えない心になる、ということなのではないでしょうか。
慈悲とは、他者を憐れむ心ではありません。
自分と他者を分ける心がなく、他者の苦しみを、自分の苦しみとして、
他者の幸せを、自分の幸せとして感じられる心なのではないかと思います。
世の中には、困っている人、悩んでいる人は、どこにでもいます。
悩みの強弱は、他者と比較するものではありません。
そんな人々に、寄り添って、希望と勇気を与え続けている、名の無い人もたくさんいます。
誰も、その尊さに 気が付かないかもしれません。
それでも、自分の幸せと、他者の幸せを区別せず、人のために生きている 名の無い、普通のお母さん・・・。
そんな人の境涯こそが、菩薩界なのだと思います。
誰もが家族は大切にしていると思いますが、
自分の幸せのためという、自分軸で家族に接している人・・・
心から家族の幸せを願い、家族のために生きている人・・・
目には見えない、境涯の違いが、未来の幸福の違いとして厳然と現れてくるはずです。
境涯は目には見えません。
しかし、境涯の違いは、他者にも伝わるものです。
自分がどんな「生命の現在地」に成長したかによって、
人間関係はもちろん、様々な 現実の問題の解決にも 繋がってくるのではないでしょうか?