素粒子の寿命と超ひも理論☆感情という名の記憶

科学/心理学

素粒子の寿命と超ひも理論☆感情という名の記憶

この世界には、永遠ともいえる時間の流れの中でも、決して変わらぬ普遍的なものもあれば、
瞬間・瞬間、常に変化し続けるものもあります。

私たち人間の生命は、宇宙生命と同一であるとするならば、
「私」という存在も、今を生きているだけではなく、永遠の存在でもあるはずです。

そして 変わらないと思っている現実世界は、常に新しい世界に、変わり続けているはずです。
その変化を感じるためには、蒔いた種から 芽が出て、花が咲き 実が実るように、時間がかかるものですが、
生命の世界では、瞬間・瞬間、絶え間なく変わっているのでしょう。

さて、物質の最小単位といわれる素粒子には、現在わかっているだけでも17種類あり、
新しい素粒子が次々に発見されているので、数は増え続けています。

また素粒子の寿命などの研究も進んでおり、まさに「瞬間」としか言いようのないくらいの 短命の素粒子から、永遠と呼べるようなものまで様々です。

例えば、電子の平均寿命は、4.6かける10の26乗年以上といわれており、もはや永遠といえるような時間です。
もちろん電子は、波と粒子の性質を持ち、目に見えない世界に消えている状態と、現実世界に物質化する状態を持っていることからわかるように、現実世界に在る時間を「寿命」とは捉えていないことがわかります。

人間の生命を、海と波に例えますが、宇宙生命という海に 一体化している状態を「死」と呼び、
波として現れている状態を 「生」と捉えます。
人間の「生命」そのものは永遠であるけれど、現実世界に生きている時間には 限りがあるということです。

素粒子の寿命の話に戻りますが、素粒子の寿命の定義は、粒子崩壊をするまでの時間、
つまり他の素粒子に変わるまでの時間という考え方になります。

例えば、物質を構成する元となる素粒子 の仲間、ミュー粒子の平均寿命は、2.2かける10のマイナス6秒。これはもはや、人間が感知できる短さではなく、まさに「瞬間」としか表現できません。

私どもの提唱する 多元宇宙 統合生命論では、この現実世界そのものも、宇宙生命への冥伏と、現実世界への顕在を繰り返しており、連続した世界ではなく、まるでコマ送りのように断続し、常に新しくなり続けていると考察していますが、
この連続している時間を、「心にも止まらぬ速さ」と表現しています。それは素粒子の寿命のように、人間の五感では決して感じることのできない速さで、世界は更新されていると考えます。

では、ここで疑問が生じます。
ミュー粒子のように短命すぎる素粒子は、どこから生まれているのでしょうか?
他の粒子に変わるのと同じような速さで、常に新しく生まれ続けていないと、すぐに無くなってしまうのでは?と想像してしまいます。

もちろん、素粒子も 人間のように転生し続けている と捉えることはできそうですが、
それを更に一歩先まで進めた理論が、超ひも理論です。

物質の最小単位であるはずの素粒子。
その素粒子を更にミクロの視点で捉えた、本当の最小単位を「ひも」ではないかと捉えた仮説理論です。

驚くことに、この「ひも」は、「太さのないひも」であると考えられているのです。
いわば、実体のないような「ひも」が様々な振動をすることで、粒子のように「見えている」のではないかというのです。

もし、この仮説が正しければ、素粒子の寿命といっても、「同じ振動を続けている時間」と捉えることで説明はつきます。

いずれにしても、瞬間・瞬間、変わりゆくものと、
永遠と思われる時間の中で 普遍的なものは、
間違えなくあるように思えます。

さて、素粒子には、物質を構成する元となる フェルミ粒子の仲間と、
物質化させる働きを助けるもの、すなわち エネルギー的なものといえる ボース粒子の仲間に、
大きく二分することができます。

人間の想念や感情などは、ボース粒子の仲間、光子(フォトン)などではないかとも考えられています。
確実に解明されたものではありませんが、人の心の働きが エネルギー的なものであることは、哲学的な考察を深める上でも、大切なポイントかと思います。

ここで注目すべき点は、光子の寿命は無限の長さ、つまり寿命はないということです。

もし、人間の想念が光子のような性質のものであったとしたら、
それは永遠に続くものだということです。

宇宙生命の中には、宇宙誕生以来の、すべての生命の記憶があるといいます。
仏教では 阿頼耶識、量子論では ゼロポイントフィールド、最近では アカシックレコードとか呼ばれている場所です。

記憶といっても、写真や動画で保存されたような「記録」が残っているわけではないと思います。
阿頼耶識には、人間の行いの結果が残っていると言われています。
良い行いをしたら善業が、悪い行いをしたら悪業が、
恐らくはエネルギーの形で貯蔵されていき、その結果が現実世界を創るとされています。

人間の想念といっても「これがしたい」「こうなりたい」といった 思考的な情報が残っているのではなく、
感情が残っているのだと思います。

今の自分が、何かをきっかけに感じる感情は、その「何か」という出来事は、あくまで「きっかけ」に過ぎず、心の中に眠っていた過去の感情が 呼び起こされているのかもしれません。

だから、同じ状況に出会っても、人によって感じる感情も違えば、感情の度合いも違いますね。

こう捉えてみると、人生の中で大きな感情が湧き起こってきた場合、
それが自分にとっての、大切なテーマであったり、乗り越えるべき課題であったりするのだと思います。
その感情に向き合うことで、自分自身の 生まれてきた使命が見えてくるのではないでしょうか。

感情がエネルギーであるという側面で捉えたら、
過去から続いている自分の中のエネルギーは、未来まで続いていくであろうということ。
だから、感情が無くなることを目指すのではなく、
感情の質を変えることが大切なのだと思います。

苦しい思いをするから、他者の苦しみもわかり、他者のためにも生きていける。
本当に苦しい思いをした人ほど、自分自身も大きな幸せをつかんでいける。

強い感情は、強い生命のエネルギーです。
永遠に続いていくエネルギーである以上、使命のためのエネルギーに変えていきたいですね。