バイオフォトンの真実☆人の想いが他者に伝わる仕組み

バイオフォトンの真実☆人の想いが他者に伝わる仕組み

人の心は 目には見えません。どこにあるのかもわかりません。
でも確かに心はここにあり、心が在ることも確かといえます。

そして 見えない心は、遠く離れた人にも伝わっていくことが実感できます。
さらには、過去に亡くなった人の心も、近くに「ある」と感じることがあります。

人の想念は、素粒子のひとつ「光子」ではないかといわれています。
もちろん心の仕組みなど、現代科学で解明できるようなものではないため、証明されているものではないはずです。

さて、19世紀までは、光は波であると考えられていました。
光は目に見えると思われています。しかし紫外線のように、目に見えない光も存在します。
目に見える光を「可視光線」と呼びますが、光には波長の違いにより、様々な種類があります。
そしてこれら光の仲間を、物理学では「電磁波」と呼んでいます。

天才科学者アインシュタインは、相対性理論を発明したことで有名ですが、
相対性理論ではノーベル賞はとっておりません。
アインシュタインは、「光量子仮説」という量子論の分野でノーベル賞を受賞しているのです。

量子論に反対していたことで有名なアインシュタインですが、
量子論の誕生に、絶大なる貢献をしていたのです。

光量子仮説とは、波と思われていた光には、粒子の性質も あると考えた理論です。
いわゆる素粒子のひとつである、光の粒子のことを光子、またはフォトンと呼びます。

例えば、もし光が波だけの性質しかなければ、遥か遠くにある星の光は見えないはずです。
ところが、遠い天体から発するエネルギーは、光子の集まりでもあるので、夜空に星々が見えるのです。

最先端の科学では、人間などすべての生物の体からは、バイオフォトンという光が出ているとの研究があります。
光る生物といえば ホタルが浮かびますが、バイオフォトンは、肉眼で確認できるレベルの光ではありません。
あらゆる生物や生体組織が発光している 超微弱な 生化学発光のことであり、光子として観測されます。

古今東西、人間にはオーラや気、波動といった、体の外に発するエネルギーがあると考えられていますが、もちろん科学で完全に解明されているとはいえません。

そこで、こうした人間から発するエネルギーが フォトンなのではないかと考えるのは自然の流れだと思います。
更には、人間の意識や想念などもフォトンだとする解釈も生まれています。

もし、これが真実ならば、どこまでがフォトンとして、身体から発せられているのでしょうか?
想いや祈りなど、思考から生まれ、心に感じているものはどうでしょうか?
好き、嫌い、嬉しい、悲しいといった「感情」は、どうなのでしょうか?
無意識の中にあり、自分では自覚できていない心も、これに当てはまるのでしょうか?

仮に、人の想いがフォトンだとしたら、遠く離れた人に想いが通じる理屈もわかる気がします。
また、「私」の周りにも、たくさんの人の想念が「波のエネルギー」を持ちながら広がっているはずなので、互いに干渉したり、影響を受けたりしているはずです。
良いエネルギーだけではなく、悪いエネルギーも受けていそうですね。

では実際に科学的にどうかといえば、何が正しくて、何が正しくないかなど、
わかるはずはないのだと思います。
人の想いがフォトンだとするのも、証明が困難ならば、
人の想いがフォトンではないとも、証明はできないはずだからです。

ここで、人間の陥りやすい傾向が見えてきます。
人間は、どうしても目に見え、自分の理解できる概念で、ものごとを捉えようとします。
その典型が、人智の及ばない不思議な力の存在を、擬人化した「神」として信じていたように…
「心」という 不思議な存在をも、科学的に理解できる存在にしたくなってしまうのでしょう。

仏教では、心のような 目に見えない世界を「空」といいます。
そして、人間や、現実の物質世界を「仮」といいます。
更には、思考や感情のように、自分で認識できる状態で現れた心の一部も「仮」と捉えます。
つまり想念や意識といっても、「空」から顕在化した「仮」の性質があるといえるでしょう。

もちろん「心」の中には、自分では認識できない「生命そのもの」の性質もあります。
そして心の本質は、「空」でもあり 「仮」でもあると捉えることを 「中」といいます。

「空」の状態の心は、すべての場所に普遍的にあるといいます。
「私」の中にも心はあれば、世界のすべての場所にも 心はあるということ。
すなわち、宇宙生命そのものが「心」ということです。

このように仏教的に捉えていけば、
よく、心は遠く離れた他者にも通じるといわれますが、
通じるも何も、そもそも「空」の世界では「ひとつ」であるということです。

仏教の概念を理解すれば、心は、光や波動など、エネルギー的なものでつながっていると捉えるより、そもそも「ひとつ」のものを、人間としての「私」が「別にあるもの」と捉えている側面もあるということです。
そして、どちらが正しいかではなく、どちらも正しいということです。

人間には、自我という「自分を自分と認識する心」「他者は自分と違う と認識する心」が備わっています。
だから人は、他者を「他の存在」として認識します。

三次元の世界では、「言葉」や「表情」などを通し、五感で他者の心を知ることができます。

それと同じように、光のエネルギーのようなもので、心と心が通じている仕組みも、
科学で、いつかは解明されていくかもしれません。

人間は、特別な力など使わなくても、他者には心は通じているのです。
それを、どこまで信じられるかによると思います。

もし人間関係などで悩んでいる場合、
相手の人が変わり、相手の周りの環境が変わることを期待する必要はないのです。

私が変わり、私の心が成長すれば、
「私」の大切な人の心も、同時に変わっているからです。
これを、どこまで信じていられるかではないでしょうか?