自我やエゴは捨てるべきなのか?

思想/哲学

自我やエゴは捨てるべきなのか?

時代の大きな変革期。
地の時代から風の時代への移行と共に、古い価値観などへの執着は捨てるべきという考えがあります。

そして自分の欲はもちろん、自我やエゴも手放していくべきとする話もよく耳にします。

しかしこれは、時代のテーマというより、
昔から語られていた、どの時代にもある 思想のように思われます。

特にスピリチュアル業界では、宇宙の真理に近づくためには、個人のエゴを捨てるところから、という考え方は根強くあるようです。

ソウルリーディングの伝統的な解釈の中にも、魂にこびりつき、膨らんでしまったエゴから生まれる強い執着を手放すべき、というような解釈がよくあります。

これらは、人間には、宇宙への帰属的欲求と、人間としての分離的欲求があると捉えます。

真理を追究し、ワンネスを求める心は、帰属的欲求から起こります。
神に近づこう、真実の悟りを得たいという考え方も、帰属的欲求から生まれると考えられます。

自我やエゴは分離的欲求。より自分らしさを求める心です。

そして、神に近づきたい、悟りを得たいと思った時、
自我やエゴがあるからダメなんだ、という方向に行くのは、わからなくもありませんね。

例えば、釈迦の時代のインドでは、苦行が流行っていました。
肉体を徹底的に痛めつけることで、煩悩や欲望、つまり現実世界に対する執着を消し去る事が目的でした。
出家した釈迦が はじめにおこなったのが 苦行でしたが、この方法では悟りを得られないとして、修行をやめました。
つまり「執着を捨てること」を やめたのです。
執着を完全に捨てさるには 「灰身滅智」
身を灰にするしかない・・
それでは幸せになれるはずがないとの結論に至ったのです。

人間には様々な欲があります。
でも、欲があるから頑張れるし、
幸せになりたいという気持ちも、一つの欲の形です。

エゴという言葉も、悪い意味にとらえる傾向がありますが、
本来は「自我」
自分を自分と思う心・・・
個としての自分の役割を感じる心です。

だから、心の中にある 何かを捨てるのではなく、
自分の生命の質を高めていくことで、より尊い目的に変えていくことが大切だと思います。

私自身も苦しんだことがありますが、
何かを手放さないと幸せになれない、こうしないと成功できない・・・
このような言葉により、義務感が生まれます。

そして、できなかったらダメなのかと思うところに、恐怖心すら生まれます。
特に精神が弱っている時は、自分の欠点ばかりに目がいき、

「これはダメなのか」
「ここが悪いのか」
「これは手放さないといけない」
「まだ何か手放さないといけないのか」・・・
きりがないのです。
そうして、どんどん自分で自分を縛り付け、自分で自分の心を苦しめていくのです。

「私が大切にしているものは、単なるエゴに過ぎないのか?」
「大切だと思っていること自体が、何かに執着しているのか?」
と自問自答を繰り広げながら、心が闇へ闇へと落ちていきました。

そして最後に感じたのが、まさに「灰身滅智」の言葉どおりでした。
執着を全て捨て去るには、身を灰にするしかないんだと。
つまり、すべての執着を捨てるためには、「生」さえも捨てるしかないんだと、体感したのです。

この時、まさにタロットのデビルのカードが出ていました。
私が、捨て去るべき執着は、囚われていた悪魔の正体は、
自分で自分を追い込んでいた、自分の心だったと気がついたのです。

そこから私も変わりました。
何が不要で、何を手放すべきかと考えるより、
「何が自分にとって本当に大切なのか」と考えるようになりました。

すぐに自分の中で、答えが見つかりました。
それからは、この答えに確信を持てるメッセージが、次々に起こってきたのです。

人は心に秘めた「大切なもの」があるから強くなれます。
その大切なものを手にしたいと願うから、心の底から、生命の力が湧いて出てくるのです。

本当に大切なものに気がついた時、自分にとって「不要になったもの」も自覚できました。
これまでの自分には必要だったもの。
しかし成長した自分には不要になった 依存心は、自然に手放せていけるようになったのです。

釈迦が辿り着いた境地も、執着を捨てることではありませんでした。
その執着を正しく見極めて、幸福へ向かうための 原動力として 生かしていく道であったと言われています。

自分が大切にしているものの為に、内に秘めた執着の心を正しい方向に導き、
それを活力としてより強く生きていくこと。

「義務感」を「使命」に変え、
自分の生きるべき道はこれだ!と強く心に定めた時・・・

すべてのマイナスも一瞬でプラスに転じていくことができるのが、
人間の持つ「意志」の力なのではないでしょうか?