全てが生まれる場所、阿頼耶識
最先端量子論でいわれる ゼロポイントフィールド・・・
近代神智学で生まれた アカシックレコード・・・
全てが生まれ、全ての情報がある場所。
これらの概念のルーツは、仏教の 阿頼耶識にありました。
さて、心理学においては、意識や無意識などの人の心の仕組みを、「層」として表現しました。
心の中には無意識があり、さらに心の奥に、人類全体の意識、集合的無意識があるというように・・・
仏教では、これを「識」と表現しました。
いわゆる五感を表す、五つの識。
「五識」からの情報を統合し、コントロールする役目の 「意識」
さらに「末那識」と「阿頼耶識」があるというように・・・。
これらの「識」は、 同じ場所に 一体として存在し、何かに縁することで起こると説かれました。
この場所とは、世界全体でもあり、私たちの心の中でもあるのです。
まさに近代科学の叡智、ゼロポイントフィールドの概念そのままですね。
まず注目したいのは、「末那識」の働きです。
阿頼耶識を、宇宙生命そのものと捉えた時、
末那識の役割は、「私の生命は私のものなんだ」「私は他とは違う存在なんだ」と、宇宙生命の本質を「誤認する」役割だそうなのです。
現代風に表現すれば、本来は宇宙生命と同一である生命から、人間の生命として 分離 独立していく為に、個を意識する役割だと捉えてよいでしょう。
こうして、人間の心の中で「自分」を意識し、自我が芽生えていきます。
生まれたばかりの赤ちゃんは、末那識の働きが弱く、まだ宇宙生命に強く繋がっていると考えられますね。
自我が育つということは、経験を積み、考える力がつくこと。つまり意識の力が育っていくことだとわかります。
さて、人間は数え切れないほどの過去世を、輪廻転生してきています。
そして、悪い行いをしたら、悪業が・・・
善い行いをしたら、善業が、生命に積まれていきます。
これらの業、すなわちカルマが貯蔵されている場所が、阿頼耶識だというのです。
業とは、過去の行いの「結果」です。
何が悪い行いで、何が善い行いかは、具体的にはっきりと説かれているのですが、
簡単に捉えれば、「人として正しい行い」かどうかと、判断していいと思います。
「人として」の基準は、どんなに時代が変わっても、変わらぬものだと思います。
残念ながら、現代のほとんどの人々は、悪業ばかり積んでいるのは間違えないでしょうね(笑)
さて、阿頼耶識には、善業か悪業か、つまり 白か黒かという 純粋な状態で、業が 保管されていると説かれています。
真実とは、追求すればするほど、シンプルなのかもしれません。
そしてこれらの業が、未来をつくる「種」となり、末那識を生むそうです。
末那識の中にある、たくさんの煩悩、すなわち欲望や迷いなどの煙にまかれるかのように、
白か黒だけであった業が、いろいろな色に染まっていき、そこから人の意識が生まれます。
そして、この意識が、現実世界を創り出しているのだと説かれています。
まさにこの世界は、人類の業や、たくさんの人々の業、これらが「縁が織りなすように」複雑に絡み合って、
宇宙生命の中にある 無限の可能性の中から、この現実の世界を 生み出しているという仕組みが説かれていたのです。
それでは、私たちの人生は決まっているのでしょうか?
私たちの力で 未来は変えることができるのでしょうか?
・・・という疑問が浮かんできますね。
誰でも、悪いことをしたら、その報いを、いつかは受けることになるという事はわかりますね。
逆に、善いことをしたら、いつかは自分に、良い形で返ってくることにもなるはずです。
このように、ものごとには、必ず原因と結果があります。
今の人生の 幸・不幸は、過去世の業に原因がある・・・
生命に宿された業が、今の人生を創っています。これが宿命や宿業と言われるものです。
では幸せになる為には、
阿頼耶識の中の、悪業を減らし、善業を増やすしかありませんね。
だから仏教では、他者の為になる修行を続けることで、善業を積むことを勧めたのですね。
それでも、既にある過去の悪業の報いは受けなくてはなりません。
だから本当の幸せをつかむ為には、とても数え切れない程、多くの人生を生まれ変わり、
修行をし続けながら、業の報いを受け続けなくてはならないと説かれていたのです。
数にすれば、何千回、何万回の人生・・・という 数えられるようなレベルでは言われてないですよ(笑)
これでは、運命は決まっていて、一度の人生では、とても変えられないと思われても、おかしくないですね。
今回の大きなポイントはここです。
これがインドから西洋に伝わっていき、西洋思想と融合、近代思想のルーツとなっていると思われる、仏教思想の主流です。
釈迦は、まず最初に「業の重さ」を人々に教えようとしたのだと思います。
そして、本当に明かしたかった 生命の真実は、この先にありました。
これまでは人間の心の仕組みを、八つの識として表現しました。阿頼耶識が八識にあたるので、
これを八識論といいます。
でも中国を経て、日本に入った仏教思想には、九識までが明かされています。
中国の天台大師は、「釈迦の本当に伝えたかった意味はこれですよ」と仏教を深く研究し、思想体系としてまとめました。
そこで説かれた法のひとつが、九識論です。
阿頼耶識のさらに先に、「阿摩羅識」という 識があります。これは別名「根本浄識」とも言います。
現代風に表現すると・・・
全ての人の心の中にある、宇宙生命と同一の生命。
この宇宙生命の清らかなエネルギーを輝かせることで、
阿頼耶識の中にある、悪業を善業に、善業を極善に、一瞬に変えてしまう力があることを、後世の人にもわかるように表現されたのです。
これは、全ての人が、今生きている人生の中で、幸福になっていくことができる、
人間の持つ偉大な可能性を示された、と受け取ることができますね。
決まっている人生などはなく、未来は決まっているわけではないことも、明確に感じることができます。
同じ仏教といっても、言葉だけでとらえるか、その本質をとらえるかで、答えがこれだけ変わってしまうのですね。
ここでもうひとつ注目しておきたいのは、アインシュタインの相対性理論です。
相対性理論では、私たちの住む 三次元の世界に、時間軸を加えた 四次元の世界では、
過去・現在・未来は、同時に存在するということがわかっています。
これは仮説ではなく、科学的に証明されている事実です。
釈迦は、当時の世界観を元に、過去世・現世・未来世という 輪廻転生の流れを語られていますが、
実際は、輪廻転生を否定もしていなければ、肯定もしていなかったと言われています。
これは、私たちが「意識できる」 3次元の世界においては、過去・現在・未来という時間が流れているけれど、
生命の本質という次元から見た場合は、過去も未来も「現在の私」の生命の中にある ということを示しているのだと思います。
だから今の自分の生命の中を、阿摩羅識のエネルギーで包むことで、
一瞬のうちに、未来を幸福に変えることができる。
これは同時に、過去をも変えてしまうことを意味します。
もちろん、三次元の時間軸においては、種から芽が出て、幸福の花が咲くまでには、それなりの時間はかかるでしょう。
でも、生命の世界では、一瞬に変わっているというのです。
人間の生命の 素晴らしい「可能性」を 感じることができますね。
仏教などの思想は、科学で全てが証明されているわけではありません。
でも相対性理論や量子論などの最先端の科学が、どんどん仏教の本質に近づいてきていることには驚きを感じます。
もちろん何を信じるかは人それぞれですが、
何でもかんでも無条件に信じるのも、どうかなと思います。
だから、時には科学のような 帰納的視点から、
時には伝統思想の 演繹的な視点から、本質を考察していくことは大切だと思います。
今回の話の中にも、末那識と阿頼耶識の役割、時間の概念など、まだまだ語り切れないテーマがたくさんあります。
そして最終的に、独自考察理論である 「多元宇宙統合生命論」をお伝えするためにも、
もう少し、様々な観点から、目に見えない世界への、時代の現在地をお話ししていきますね。