価値観の違いと、個性の尊重
人間関係の問題は、往々にして、価値観の違いが原因になります。
誰でも自分の価値観を基準に考えるので、
自分と違う価値観の人を「おかしい」と否定してしまいがちです。
また、価値観が違うと思った時の反応も、人それぞれですね。
自分と違う人とは 付き合わなければいい、とあっさり遠ざける人もいれば、
相手を完全否定して おこり出す人も。
無意識に、自分の価値観を 押し付ける人もいるでしょう。
これは個人単位のことばかりではなく、
社会単位、くに対くにでも、同じなのでしょうね。
価値観は一様ではなく、色々な考え方や生き方があると理解すれば、争いなど起こらないかもしれません。
しかし、全ての人が理解できるわけではないという前提で考えないと、現実的とは言えません。
私も価値観にはこだわるタイプ・・というより、
心理学などでタイプ分析をすると、最強にこだわるタイプでした^^
価値観が違う人は理解できず、衝突するか、
時には軽蔑して、縁を切るような傾向もありました。
これも、生命に刻まれた、過去世からの癖だと気がつきました。
私の場合は、直すべき 悪い傾向性と捉えました。
このことを教えてくれたのは、私の子供かもしれません。
子は親に似るといいますが、本質的な生命の傾向性はDNAだけで決まるものではなく、個々の生命にやどしたものもあるとわかりました。
つまり、子供であっても、親とは違う価値観、個性を持っているということ。
親子といえども、個の生命としては、別の人格なのです。
いつからか、我が子の個性を尊重し、
親と子としてだけでなく、人として対等に付き合いたいという気持ちが芽生えてきた頃から、私も変わってきたのかもしれません。
こう考えれば、これが「風の時代」の子供たちの使命なのかもしれないと思います。
今の子供たちは、見失っている大切な何かを、大人たちに教える目的もあるのでしょう。
価値観が違う人を、自分の尺度で判断してはいけない。
他人の価値観を尊重し、自分は自分の価値観を大切にすることで、
多種多様な個性の人たちが、共栄 共存していく生き方。
これが「個性の時代」の基本だと思います。
しかし価値観が異なっても、決して変わらぬ普遍の真理もあります。
個性の尊重と、「何でも自由」は根本的に違います。
個性といっても、あくまで「人としての道」を外さない形で伸ばしていくことが大切。
これからの時代の「教育」の原点は、ここにあると考えます。
さて、自身の個性を分析する方法はたくさんあります。
特に、タイプ分析系の心理学は、得意分野だと思います。
しかし心には 見えない領域も多くあります。
過去世に原因があり、生命に深く根差している「生命の個性」などは、まさにこれにあたるでしょう。
心理学で、自分がどのような価値観が強いのかは分析できても、
「なぜそういう価値観を持っているのか」 という 原因や理由まではわかりません。
この理由がわからないと、変えることは難しいかと思います。
だから、「この人はこういうタイプ」とタイプに当てはめて、個性を見ることができなくなる傾向に陥ります。
「人は いくらでも 変わっていける」 ということに目が向かないのでしょう。
自分の価値観は、今までの人生の体験や、親や学校で学んできた 知識からできているものも確かにありますが、
心の中に深く刻まれている「生命の癖」により成り立っている価値観も多々あるからです。
人は、何かの出来事に直面した時、過去の記憶を分析するかのように、対策を講じますが、
思いもよらぬ事態に出会った時、過去世からの業の試練が現れた時などは、
これまでの知識や経験は全く役に立たず、
過去世から慣れ親しんでいる「生命の癖」が自然と出てしまうもの。
だから、過去世と同じような思考パターン・行動パターンを取ってしまい、
結果的に、過去世と同じような失敗パターンにも陥るのです。
人生を大きく動かす出来事などは、後者の場合がほとんどでしょう。
このような生命の傾向性、そこから生まれる価値観などは、
具体的に分析し、自分で自分を学んでいくことが可能です。
そして自分が、どのような傾向性を持っているかは、さほど重要では無くなってきます。
なぜなら、自分が求めていく価値観や生き方を見つめ、
それを実現できる自分に変わっていくことが、何よりも大切だからです。
つまり、望む未来を手にするために、
過去を知り、現状の自分の現在地を確認することが、生きてくるのです。
そして同時に、人には人の数だけ、多種多様な価値観や、生命の傾向性があることも理解することで、
他者を尊重できることにもなりますね。
他者を知ることで、自分の良いところも、悪いところも見えてきます。
自身の個性の、どこを伸ばし、何を矯正するべきかがわかってきます。
その上で、希望のある社会を創るために、
共に切磋琢磨しながら、一歩一歩進んでいけばいいのだと思います。
これが、風の時代の、共栄 共存の道なのではないでしょうか?
人はひとりで生きるものではありません。