三次元の現実世界はホログラフィーだった!?
私たちが生きている 三次元の現実世界・・・
これらは、宇宙のどこかにある、二次元の 平面に記録された情報が映し出された、
立体的な映像=ホログラムに過ぎなかった・・・。
この驚くべき理論が、量子科学の仮説のひとつ、ホログラフィー原理です。
もしこの仮説が正しいとすれば、私たちの世界は、実態のない、幻のようなものなのでしょうか?
私たちは縦・横・高さのある 三次元に生きていますが、モニターを通してみる 動画の世界が二次元です。
ホログラムとは、フィルムのような 二次元の記録を、立体的に投影したものですね。
ホログラフィー仮説が誕生したきっかけは、宇宙空間にある ブラックホールの謎からだったそうです。
ブラックホールは、あらゆる物質を 飲み込んでしまう天体ですが、
その飲み込まれた 物質の情報はどこにいくのか、という謎があるのです。
普通は、何かを取り込んだら、体積が増えると考えますが、
ブラックホールの場合、物質を飲み込んだ分だけ、表面積が増えているという仮説のもと、
取り込まれた情報は、ブラックホールの 表面に書き込まれていくのではないかと 考えるようになりました。
ここから、ホログラフィーの原理が生まれたそうですね。
そして、この仮説が正しければ、超ひも理論の証明にもつながっていくと、期待を持たれているのです。
さて、ホログラフィーの科学的見解の話はこのくらいにしておきますね。
証明されていない仮説の理論なので、結論は出ないからです。
それでは、この原理をもとに、少しイメージを膨らませてみましょう。
人類は太古の昔より、星の運行が、社会の動きや、個人の人生と関連することを、実感として感じていました。
今の時代は、冥王星の影響で、世の中に破壊と再生が起こり、時代が変わっていくと読むことができるのですが、
冷静に考えると疑問が生じます。
冥王星のような遥か遠い天体から、何かしらのエネルギーを受けることで、こうした変化が起こるとは、とても考えにくいです。
非科学的だから 信じられないとする人もいますが、実際に冥王星が、今の時代を 大きく揺さぶっていることを疑うことは できないですね。そのくらい顕著に、言われている通りに現実世界が動いているからです。
夜空にどこまでも広がる 大宇宙。
この大宇宙は、私たちの心の中にある 小宇宙と、同一のものとしか、考えられません。
夜空に見える星々は、私たちの心の中を映し出す鏡なのかもしれませんね。
もう少しイメージを膨らませれば、夜空の星々は、本当に私たちが思っているように、存在するのでしょうか?
この3次元世界の、延長としての宇宙に、本当にあるのでしょうか?
太陽や月、太陽系の惑星などはあるとしても、
地球から遥か離れた 星座などは、もしかしたら、平面にある 光の点のようなものかもしれませんね。
夢が無くなるようですが(笑)これはこれで興味が湧いてくる話です。
さらにイメージを膨らませると、
これが四次元の世界から見た場合は、どうなるのでしょうか?
五次元以上から見た場合は、また違う世界になるはずです。
科学的な視点からいえば、次元が高くなるにつれ、内に 折り畳まれた世界になるはずです。
高次元の世界といっても、私たちの外に広がる広大な世界ではなく、私たちの心の中にあるはずなのですね。
私たちがイメージする、天国のようなものではないのです(笑)
こう言葉を並べてみると、やはり夜空に見える星座たちは、二次元なのかもと思ってきました(笑)
言葉どおりに、まさに私たちの心の中の 「鏡」のイメージですね。
宇宙船で 宇宙を旅できたら、三次元空間が広がっていくかもしれませんね。
イメージしたところで、答えは出ませんが、
イメージしないと、答えも出てきません。
だから、自由にイメージすることは、無駄なことではないと思います。
それでは、この不思議な世界を、仏教ではどう捉えているのでしょうか?
目には見えないけれど、確かに存在する世界・・・
何もないように思えるけれど、確かにある世界・・・
これを仏教では「空」と読んでいます。
私たちの周りのあらゆる物や、あらゆる事象は、決まった形はなく、変わらないものはない、という概念です。
これが 何かに縁することで、現実という形となることを「仮」といいます。
私たちのこの現実世界は、すべての人の縁が 重なりあうことで、生まれているといいます。
しかし、しばしば仏教の業界でも、この概念を間違えて解釈されているように、思えるところがあります。
目に見えない世界を「空」 、現実世界を「仮」と捉えた時の、言葉のイメージのせいかもしれません。
現実世界は仮のものであり、本質は何もないのだと・・・
私たちの肉体や人生は仮であり、魂の世界こそ、本質なのだという話をよく聞きます。
これは「仮」の捉え方を間違えているのだと思います。
「仮」とは、一時的な状態であり、「仮に生じている」と捉えていいでしょう。
人の縁は瞬間瞬間変わっていくので、この現実世界も、常に変わり続けていくのだということを、「仮」という言葉で示されています。
そして「空」「仮」に続き、「中」が説かれます。
「中」とは、中道のことですが、中道の仏教的な意味は、
この世界は、目に見えない高次元の世界が本質で、三次元の現実世界は仮に過ぎないとするのでもなく、
現実世界が本質で、目に見えない世界が幻だとするのでもなく、
そのどちらも本質であり、どちらも正しいとするのが、「中」の概念です。
この概念をベースに考えた場合は、
私たちの生命は、宇宙生命という「全体」の生命として存在しているということも、
「個」 の人間として、現実世界で生きている私たちの存在も、
どちらも本質で、どちらも真実なのだ、と捉えるのが正しいのではないでしょうか?
科学とは、どうしても人間が理解できる概念で説明しようとしてしまいます。
ホログラフィー仮説の場合、二次元を実態、三次元のこの世界をホログラムという 幻のように例えています。
これを「中」の概念で捉えた場合、
どの次元で、世界を見ているかというだけの違いで、どの次元も正しいと捉えたらどうでしょうか?
だから、三次元の現実世界を否定してはいけません。
もちろん数字の世界が示す、高次元の世界も否定するものではありません。
こう考えていくと、二次元が平面の情報だとすると、一次元で見ることもできるはずですね?
一次元は直線1111111111・・・厚さのない、まっすぐな ヒモ・・・ということになりますね・・・
どこまでも、どこまでも小さく、内にあるものを求めていけば、
最後には、全体の世界に行き着く・・・
私たちの「外」にあると思っていた世界は、私たちの「内」にあり、
私たちの「内」にあると思っていた世界は、私たちの「外」にもある・・・。
遥か昔、仏教で既に説かれていた真実への答え・・・
多くの叡智が集まり、一歩一歩真実に近づいていく科学・・・
アプローチが真逆の、この二者が、いつかは同じ答えに辿り着く時が来るかもしれませんね。