意識と無意識の感じ方の違い

科学/心理学

意識と無意識の感じ方の違い

人間の心には、自分で自覚できる領域である「意識」と、自覚できない「無意識」の領域があります。
心理学では、意識の領域は氷山の一角のようなものであり、心の底には巨大な無意識の領域が潜んでいると表現されます。
この 意識と 無意識の存在があることは、誰もが疑わないかと思います。

人間の心の仕組みと、行動の原理を研究する学問が 心理学です。
心理学には様々な学派がありますが、各派ごとに、あまり接点を感じません。
それは心理学自体が、心の 全体観を説いたものではなく、あくまで 部分観だからだと思います。
アプローチも、着眼するポイントも様々なので、違って当然です。
学ぶ側からすると、どれが正しいかと 比較するようなものではないということです。

さて、心理学の中でも、目に見えない世界を語る上で、一番よく聞く学派が、ユング心理学になると思います。
ユング心理学は、心の全体像に一番迫ったものと評価することができます。
逆に「科学的ではない」という批判も聞こえそうですが、そもそも心の仕組み自体が科学では何もわかっていないので、科学的であるはずがありません。
むしろ「科学と宗教に橋をかけた」との評価もあります。

ユング心理学では、心の奥底に、人類共通の 普遍的無意識=集合的無意識があるとされていますが、ここが最大の 評価されているポイントです。
全ての人間は、根源的に 繋がっているということになりますから。

そして人類共通の心の動きを、アーキタイプとして分類しました。
例えば、現代の占星術の解釈には、星座ごとの性質が、アーキタイプに結び付けて解釈されています。
だから星座ごとに 仲間分けしただけでも、同じ性質、共通した心の動きが読めるので、そこから生まれる行動パターンから、未来に起こり得る出来事まで予想がつくのでしょう。
その解釈が「当たっている」という事実の積み重ねが、全ての人間が繋がっていること、いわゆる ワンネスの確証になっていると思います。

さてユングは、無意識の中にも、個人的無意識と、集合的無意識があるとされました。
仏教においては、宇宙生命の私という 阿頼耶識の生命もあれば、
宇宙生命から「個」として分離するために、「私は私」「私は他とは違う」と誤認するための 末那識の生命があると説かれます。
そして末那識から、私たちが自分で認識できる「意識」 さらに 自我が芽生えてきます。

これは、無意識の中にも、宇宙生命としての心と、自覚はできないまでも個の人間としての心があることになります。

ここで、人間は意識で感じていることと、無意識で感じていることは、違うことも多いという点に注目です。
意識の私と、無意識の私に食い違いが生じた場合は、脳が誤作動を起こし、肉体に痛みが伴います。
様々な肉体の不調や、理由のわからぬ不安感や恐れなどの多くが、ここに原因がある場合が、多いようです。

そして、無意識の心を「言語化」して知ることで、その心は意識下に置かれます。
たったこれだけのことで、様々な体調不良が改善することも多いのです。

例えば、何かの心配ごとがあったとします。
意識の自分は、思考でものごとを判断するので、色々な条件を考慮したり、頭で想像することで、「それほど大事にならないだろう」と判断し、心配ごとを頭で打ち消したりします。

でも無意識の自分は、思考しません。思考をしないと、起こり得る「可能性」だけを純粋に感じているので、いわゆる最悪な状況を想定してしまいます。例えれば、まだ自我が芽生えない小さな子供のように、「怖い」「嫌だ」と感情で感じているだけなのでしょう。

このように、意識と無意識に食い違いが生じた場合は、脳の誤作動が原因で、肉体に痛みのシグナルが走ります。

逆のパターンもありますね。

意識の自分は、思考で「起きていないこと」まで想像します。つまり現実の因果関係を無視して、勝手に「こうなったらどうしよう」という悪いケースを想定し、不安になります。これは誰にでもあることで、生命力が落ちると悪い方向に考える傾向性が強くなるだけです。
多くの場合、頭の中に考えることで、悩みを増やしているのです。

ところが無意識の自分は、過程はあまり気にせず、最後のゴールだけを見ています。たとえ、意識の自分が苦しんでいても、無意識の自分は、その先に明るいゴールが来ることを知っている場合もあるはずです。

このパターンでも、意識と無意識には食い違いが生じるので、脳の誤作動による体調不良は起こります。

無意識といっても、「個」を認識する「意識」に近い心から、「全体」を認識する 宇宙生命に限りなく近い心まで様々です。
先の2つの例は、比較的「意識」に近い、ユング心理学でいうところの 個人的無意識に当たるでしょう。

宇宙生命は、全く違う感情を持っているかもしれません。
例えば、過去世からの宿業にあい、耐え難い苦しみを感じているような時でも、
いよいよ過去世で乗り越えられなかった壁を破り、幸福に進むチャンスが来たのだと、喜んでいるに違いありません。

もちろん何が正解かなど、わかりません。科学では何も証明できないので。
それでも、自分の心でわかります。
無意識の心が言語化された時、「あぁ、自分の本当の心はこう感じていたんだ」と何の疑いもなく腑に落ちるようであれば、きっと、それは正解なのだと思います。

むしろ「自我」が強くなりすぎて、「こうであるべき」「こうなるはず」といった「思考が正しい心を否定」してしまう場合も少なくはないのですが・・・
「心を整える方法」や、具体的な「心の傾向性」は、別の話題で 繰り返し語っていきたいと思います。

心は不思議です。
でも心の仕組みを知れば知るほど、人間の素晴らしさが、人間の偉大さがわかってくるに違いありません。
心は変わり続けます。つまり腐らせていく場合もあれば、磨いていくこともできるということです。
そういう意味でも、心の探求を進めることには 価値がありそうですね。