【決着!?】スピリチュアルVS科学
私たち人間は、三次元の現実世界を生きています。
これを正しくいえば、人間が意識で認知できるのが、三次元の世界であり、
四次元以上の高い次元からの視点で見たものは、五感で認知できていないだけなのです。
これを「目には見えない世界」と呼んでいるだけだと思います。
いずれにしても、私たちは、目に見える世界とだけ関わっているわけではなく、
目に見えない世界とも深く関わっています。
そして目に見えない世界の中で、一番身近といえるのが、私たちの「心」なのかもしれません。
心は、どこにあるかよくわかりません。
でも心は、確かに「ここにある」といえます。
心は胸の中にあるような気がします。頭の中にあるのでは とも考えられています。
確かにそのような気もしますが、少し違うような気もします。
さて、科学とは「観測や実験」を通して、あらゆる事象の法則を探究する学問であります。
つまり、観測や実験ができる世界でしか、証明できるはずがないのです。
ところが量子論のように、目に見えない世界の法則を知ろうとした場合、直接的に観測や実験ができるものでもないはずです。だから最先端の科学といっても、ほとんどが「仮説」であって当然です。
今でも最先端の量子論のほとんどが、科学では証明されていない「仮説理論」であるのが現実です。
もちろん、これが悪いわけでは決してありません。
強いて科学信奉者の欠点を挙げれば、なんでもかんでも人間が理解している概念で捉えようとしてしまうところかもしれません。だから無理やり こじつけた感が生まれてしまうのだと思います。
本物の科学者とは、科学の限界を知っている者ではないかと思っています。
一方、宗教やスピリチュアルなどは、科学的にたどり着けない、目に見えない世界をも対象にしています。
ここで、ものごとを論理的に判断する基準として、演繹法と帰納法を復習してみましょう。
例えば「世界の真実」を探究する場合、
演繹的な視点では、まず絶対的な真実を「大前提」に定めることで、他のあらゆる事象の法則や関連性を示していきます。宗教やスピリチュアル理論などがこれに該当します。
帰納的な視点は、確実に正しいものを一歩一歩積み上げて、真実を解明していく方法。まさに科学的なアプローチのことです。
ここで、演繹法と帰納法のどちらが優れているかという議論は、全く的外れです。そもそも真逆のアプローチなので、どちらにもメリット・デメリットがあります。
演繹的なものにおいては、大前提が間違えている時点で、その他全ての理論も崩壊します。
帰納的なアプローチは、証明された事実は正しいながらも、目に見えない世界の真実のような答えには、まずたどり着くことなど不可能といえるでしょう。
だから、演繹的な視点と、帰納的な視点の双方から考察していくことが大切なのです。
例えば、ある宗教の教えが、科学の見地から外れていたとしましょう。それは、その宗教が間違えていることを意味します。
だから人類の長い歴史において、宗教と科学は、相入れない「敵」のように思われていたのです。
ところが、2000年以上前に説かれた仏教の教えに、量子論という科学が、どんどん追いつき、一致してきていることが見えてきます。
もちろん完全に一致したとは まだまだ言えず、量子論の「仮説」理論があって「真実に近づいてきている」と評価することができるのですが。
ここで何か問題を感じるとすれば、
まだ科学で証明されていない「仮説」の段階の理論を、あたかも「科学で証明されている」と言い切ってしまうことだと思います。
何かのスピリチュアル理論を「これは科学で証明されていることです」と安易に語ってしまった時、それは他者を迷わせる原因になります。もしスピリチュアルグッズの販売などに関わっていた場合は、一歩間違えれば 詐欺のような話になってしまいます。
例えれば、「この株を買えば、絶対に上がりますよ」というような禁止トークと、同じ質かもしれません。
しかし、スピリチュアルなどの「精神性」に関わる分野の場合、間違えた理論を信じてしまったら、お金を損したというレベルではなく、それこそ人生を狂わす怖ささえあるのです。いわゆる悪徳宗教みたいになる可能性もあるのです。
また、未だにスピリチュアル的なものを完全否定する人もいますが、
いい悪いではなく、単純に生き方が薄くなってしまうと思います。
これも、不思議なことではなく、人間の心に備わっている煩悩の一つの形だとわかります。
仏教的にいえば、宇宙生命という生命の本質を忘れ、自分という自我の意識に目覚めさせる役割が、
生命の中の末那識にあります。
末那識が強くなれば、自己意識が強くなるので、いわゆる哲学的にいう「小我」に陥る傾向にあります。
現実だけしか見れなくなり、お金があれば 幸せは買えるとなりがちです。
実際にお金があれば、それなりの裕福な生活を手に入れることは可能でしょう。でも小我の本質は、他者と自分を分断する心なので、自分さえ良ければと なりがちです。結果として本当に心から満足できる幸福は手に入らなくなりがちなのだと思います。
結論は、目に見えない世界の探究も、科学も、真実を求めることがゴールではないのだと思います。
どのような思想を自分の心の芯に置くかにより「幸せになること」が一番大切だと思います。
だから「幸せから遠ざかること」になってしまったら、本末転倒なのです。
まずは第一歩として、得た「知識」を自分でどのように活かしていくか・・・
何が正しくて、何が間違えているかを見極める目、どういう知識を増やしていけば、自分の心が豊かになるか、などの「自分なりの基準」が大切だと思います。
それがしっかりと確立された時、
科学も、スピリチュアル的な思想も、互いが互いの手を取りあって、
幸福に向かうための確かな道標になっていくのではないでしょうか?