ラプラスの悪魔VS量子論★未来は確定的か不確定か?

科学/心理学

ラプラスの悪魔VS量子論★未来は確定的か不確定か?

私たちの未来は、あらかじめ決まっているのでしょうか?
それとも未来は決まっておらず、考えるだけ無駄なのでしょうか?

恐らく人類の歴史を見ても、根源的な疑問のひとつであり、
科学的にも完全に解明されたとはいえず、思考し続けていくべきテーマだと思います。

ラプラスの悪魔とは、18世紀の学者、ピエール・シモン・ラプラスが提唱した学説から生まれた概念です。

当時の物理学では、あらゆる現象は、原因によって結果が生まれるという「因果律」が一般的な解釈でした。
更には、全ての出来事は、過去の出来事によって決まるという「決定論」なども生まれました。

ラプラスは、この考えを元に、「今の出来事という原因によって、未来の出来事という結果は決まっている」という理論を展開し、
あらゆる出来事を知っている存在は、宇宙全体の未来までを知っているという、人間を遥かに超えた「知性」の存在を仮定しました。
この、あらゆる未来を知っている存在のことを「ラプラスの悪魔」「ラプラスの魔物」などと呼ばれるようになったといいます。

この考えは、20世紀になり、量子力学の発展と共に、否定されていきます。
現在主流の量子力学には、不確定性原理というものがあります。

素粒子のひとつ「電子」には、目に見えない波の状態での存在から、目に見える粒子の状態として現れるという、量子論の基本の性質があります。

科学的な実験においては、電子の動く方向と、電子の位置は 同時にわからないのです。
科学的な表現では、見えない状態の素粒子は、まるで分身しているかのように広範囲に同時に存在していることから、「状態の共存」という言葉で表されています。
哲学的な表現では、目に見えない空間に、一体となるかのように溶け込んでいると表現される場合もあります。

いずれにしても、粒子の状態として現れる場所は、特定できないのです。
これは、ラプラスの悪魔が象徴する、「決まった未来などはない」ということを意味します。

とはいえ、量子論の最先端の仮説には、未来は決まっているとする「決定論」を主張するものもありますので、
完全に決着がついたとは言えないかもしれません。

さて、あらゆる事象に、因果関係があるというのは間違えなのでしょうか?

まず、時間軸のある 三次元の世界、つまり私たちが意識で感じることができる世界においては、
因果関係は成り立つと考えてよいかと思います。
過去にあった結果が、現在の私をつくっており、現在の私がつくる原因が、未来の私を決めていくという因果の法則は、間違えではないと言ってよいでしょう。
木から落ちたリンゴが、どの位置に落ちるかは、決まっていると捉えていいのです。

しかし、目に見えない世界までも含めた、真実の世界観を追求すると、三次元の解釈だけで全てが捉えきれるものではありません。
仏教では、瞬間の生命の中に、因と果が同時に備わっていると説かれました。これは、私たちの感じる 時間軸のない世界、すなわち四次元以上の 高い次元からの視点で見た真実と 捉えることができます。
つまり、次の瞬間の生命が変化すれば、因と果も変わるということです。これは未来は変わる可能性があることを意味しています。
木から落ちたリンゴを、鳥がキャッチして、どこかに持っていく可能性もありますね。

仏教の卓越性は、この「どちらも正しい」と捉える点だと思います。

これを現実的に解釈すると、私たちの未来は、今の私たちの行いにより決まるということです。
そして、何も努力しなければ、確率の高い未来に自然に流されていくだけです。

しかし心を改めて、自分を変える努力をしたら、未来は変わる可能性はあるとも捉えられますね。

思想の大切さはここにあります。
「未来は決まっている」と思い込んでしまったら、未来を変える努力などしないはず。
でも「未来は変えられる」と信じたら、自らの過ちに気がついた時、自分を変える努力をするでしょう。
思想の違い一つで、進んでいく未来へのベクトルが、全く変わることがイメージできますか?

さて、ラプラスの悪魔的な解釈は、現代科学では否定されてしまっていますが、
一般的な道徳の上では、十分に生きてくる考えだと思います。

人間が人間たる所以は、因果関係を理解できる力があることです。
「これをしたら」「こうなる」と、未来の結果を見越すことができます。

しかし実際はどうでしょうか?

何をしてもお金が稼げればいい、自分だけ良ければ 他はどうでもいい
見つからなければ法に触れてもいい、法に触れさえしなければ問題ない・・・
あまりにも目先のことしか見ていない風潮がある気がします。

動物には目先のことしか見えていません。
だから目先のことしか見えていない生命の状態を、「畜生」と呼ばれていました。

実際に動物たちを見ていると、思っている以上に賢く、
人間の方が、頭で思い込んでしまったり、頭で理屈づけてしまう分、
動物たちより タチ悪いかなとかも思ったりしますが・・^^;

畜生の生命は、誰の心の中にもあります。でも人は、因果を理解することで、ここから 脱していけるはず。

古くなった価値観の中にも、大切なものはたくさん詰まっています。
真実を追求するだけが絶対なのではないと思います。
現実を良い方向に転換する為に活用していくこと。人間には、このような力もあるはずですね。