アインシュタインを悩ませた不気味な遠隔作用=量子もつれ

科学/心理学

アインシュタインを悩ませた不気味な遠隔作用=量子もつれ

目に見えない世界の法則を探究している科学、量子論の発展は、世界の常識を次々に変えてきています。
恐らくは今の時点でも、常識を覆す発見が、幾つも存在していると思われますが、
科学で解明されていないとの理由から、日の目を見ないものもたくさんあるはずです。

世の中は、先が暗い話題ばかりに包まれていますが、
明るい未来もたくさんあることに、希望を感じていきたいですね。
人間の心が何を求めているかによって、選ぶ未来も変わってくるのだと思います。

さて、量子の世界の不思議な性質に「量子もつれ」があります。
量子もつれは、本格的に解説するほど理解できなくなるので、
なるべく簡単にお伝えし、この不思議な世界観を感じて頂きたいと思います。

さらには、この世界誕生の重要なポイントを考察していきますね。

物質の最小単位、素粒子には、波と粒子の両方の性質があるというのが、量子論の基本の基本です。
この発見に貢献したのが、アインシュタインです。
光は、波のように広がっていきます。波は、目に見えるものではありません。
しかし光は「明るい」と感じ、目で見ることができます。

そこでアインシュタインは、光は波の性質だけでなく、粒子の性質もあると考え、「光子」の存在を主張。
「光量子仮説」を発表し、ノーベル賞を受賞。量子論の扉を開けました。
しかし今回のテーマ「量子もつれ」には納得ができず、生涯、量子論に反対する立場を取りました。

誰もが知る素粒子の 代表的存在が「電子」です。
電子は二つある状態で安定しています。
また電子は、スピンをしているという性質があり、対になる二つの電子は、反対方向にスピンをします。

ここで仮に、この二つの電子が別々の方向に弾け飛んだとしましょう。
実際の電子は、ボールのように軌道が見えるものではありません。波として見えない状態になっています。
そこで片方の電子を「観測」した時、電子は粒子として現れます。
この時、反対方向に飛んだ電子も、粒子となり同時に現れるのです。

アインシュタインを生涯悩ませた「量子もつれ」の問題はここからです。

電子は、観測しない場合は、目に見えない状態になっています。
この時、スピンする方向が逆の 二つの電子が「重ね合わせ」になっているというのが、量子論の解釈で、
アインシュタインも、この性質を否定しているわけではありませんでした。

そして、弾け飛んだ片方の電子を「観測」した瞬間、この電子のスピンの向きが決定します。
同時に、もう片方の電子も、逆向きにスピンが決定するという点です。

ひとつの電子の動きが決定したところで、光速を超える速さで情報が伝わり、もうひとつの電子の動きが決まるとでもいうのか?そんなことはあり得ないとアインシュタインは強く否定、「不気味な遠隔作用」とまで呼びました。

このような量子の現象は「量子もつれ」と呼ばれるようになり、
近年になり、科学的な実験でもはっきりと証明されました。

一度「量子もつれ」の状態となり、関連性の生まれた 量子どおしは、
例えば光子のように、どんなに遥か遠くに離れた場所にあったとしても、片方の状態が決まると、もう片方の状態も瞬時に決まるのです。

この理論から考えられたのが、量子テレポートです。
量子テレポートの実験も近年成功されましたが、SFの世界などで知られているテレポートとは、意味が違います。
つまり、Aという存在が、Aとして別の場所に、瞬時に移動するのではなく。
AとBという離れた場所にある量子が、Aが変わったら、別の場所のBも瞬時に変わるというイメージです。

このように科学的に考えていくと、とても不思議な話に聞こえてしまいますが、
これは、三次元の現実世界における「空間と時間の概念」を元に解釈しようとしているから、難しくなるのだと思います。

四次元より高い次元の世界には、私たちの感じている空間と時間の概念が当てはまりません。
それを端的に表現していたのが、今から二千年以上前に生まれた仏教の世界観です。

ここからは、科学の視点と仏教の視点を比べながら、「量子もつれ」を考察してみましょう。

まず、電子や光子のような素粒子は、意識をしていないと 波として、目には見えない状態になっていると捉えます。

科学の世界では、電子が出現する場所を確率的に想定します。

例えば、原子の周りから一定の範囲内にある「空間」に電子が隠れていると考えるので、
その限られた空間の中に、「重ね合わせ」になっているとイメージするのでしょう。

でも仏教の概念では、目に見えない「空」の状態の時は、すべてと一体化していると捉えます。
つまり空間的には、全宇宙も含めた、すべての場所に存在することになるので、「空間」として認識すること自体が不要になります。
これを「冥伏」していると表現します。

次に、電子の例のように、対になっていた電子が、弾け飛んだ場合、もちろん空間的には離れた場所に現れることになります。ここで人間が、「この辺りまで離れただろう」と想定した場所に意識を向けることで電子が出現します。意識を向けた場のエメルギーが高くなるからと考えられます。

これを仏教的にいえば、「因果」によるもの と考えられます。
対になっていて安定した電子が離れることになった「原因」があるから、別の場所に現れるという「結果」が伴います。

そして今回のテーマである「量子のもつれ」は、仏教では「縁」にあたると思います。
「縁」は、時間と空間の概念を超えて繋がっているものなので、Aが変わるのと同時にBが変わるということは、「縁」を理解すれば、何も不思議なことではありません。
「縁」は物理的に、どんなに離れていようが、その繋がりには変わりがないからです。

つまりアインシュタインが考えたように、一方の電子の動きが決まったら、何かの情報が、他方の電子に伝わっているのではなく、
「空」の世界に一体化していた二つの電子が、お互いの「縁」により、三次元世界に現れたというだけなのでしょう。
だから時間的にも「同時」に現れるのです。

この概念だと、三次元的な距離の概念も全く関係ないですね。例え、違う天体くらいに遠く離れていても、同時に現れて不思議ではありません。

そもそも仏教では、この現実世界は、宇宙生命と呼んでいる「空」の世界から、因縁により現れると説かれています。
因縁とは、いうまでもなく「因果関係」と、他の存在との「縁」です。
もちろん、因果も縁も、1対1の関係ではなく、数えきれないほど多くの因果、様々な他者との縁などが、複雑に絡み合って、一つの世界をつくっているはずです。
因果関係と縁、それぞれ強弱の違いがあるだけで、私たちはすべての他者とも繋がっているのです。

さらに哲学的に考察すると、
今の人生で出会っている人とは、たまたま巡りあったわけではなく、過去世からの強い因縁により、引き寄せられるかのように出会っているということ。
そして人生の中で起こる、たくさんの出会いと別れでさえも、因縁という深い意味があって、現実の出来事として起きているということ。

だから今世で出会う身近な人たち、大切な人たちとは、
私たちが感じている以上に、ものすごい深い絆で、強く引き合っているのだと考えられます。

現実の私たちが、初めて出会い、そして別れるかのように感じているだけで、
遥か遠くの過去世から、そして 未来永劫に渡るまで、その絆は続いていくのだと思います。

今世で新しくつくった因果により、各々の立場や関係性は変わるかもしれませんが、
縁による結びつきは変わらないはずです。

仮に、現実の世界で遠く離れている関係であっても、
生命の世界では、お互いに「もつれ」あっている、縁の力で結びついているため、
どちらか一方の心が変化すれば、相手の心にも 気持ちは伝わるというレベルの話ではなく、
片方の変化により、相手の心や状況も変化しているはずなのです。

もちろん、相手が自分と全く同じ状態に変化するという単純なことではありません。
私たちの体は、たくさんの素粒子の集まりでできており、
心から発せられる想いも、光子のような 数えきれないほど無数の素粒子です。

大切な人たちとは、幾重もの「量子もつれ」ともいえる「縁」で結びついた、
宇宙生命の中から生まれた、まるで自分の分身のような存在なのですから。

もし、大切な人の幸せを願うなら、自分が変わればいいのです。
自分の境涯が成長していけば、相手の周りの環境も、その境涯に包まれた環境に変わっていくはずです。
結果として、相手の心も、環境も、変わっていくに違いありません。

自分が変われば、まるで自分の分身かのように変わる人がいる・・
人と人との縁とは、私たちが思っている以上に、強い影響を及ぼしあうものだと感じるだけでも、
心がワクワクしてきませんか?