三次元の常識では真実は見えない

三次元の常識では真実は見えない

人間は、目に見えない不思議な世界を理解するにあたり、
自分が理解できる概念に当てはめて、イメージしようとします。

この世界は、人の力には及ばない、大いなる存在に支配されている・・
そう感じた人類は、人の形をし、人格を持った 「神」をイメージしました。

自然に囲まれ、自然の脅威にさらされてきた島国の日本では、
自然の力を「神」として捉え、動物などの姿を模した神々を イメージしました。

この感覚は、現代でもさほど変わらず、
最先端の量子論が示す、目に見えない世界の法則も、
私たちが五感で認識できる、三次元の世界の常識に当てはめて捉えようとします。

ここに誤解や、誤認が生じるのだと思います。

例えば、量子論の誕生のきっかけは、
電子などの素粒子は、観測しようと「意識を向けると」粒子として現れ、
意識を向けないと波として消えてしまうという性質が元になっています。

確かに、素粒子には粒子と波の性質があることは証明されています。
しかし、「意識を向けたら変わる」というニュアンスは微妙なところです。
人間が意識を向けていないものは、消えているということになりますから。

量子論の理論を語る場では、必ず同じような疑問が投げかけられます。
例えば、「人類が発見していないものは、存在しないのか?」という疑問です。
人類が知らないだけで、まだ見つかっていない星などもあるはずだという見解ですね。
もっと近場でも、誰も知らない秘境の地に、知られていない場所もあるはずですね。

確かに理屈で考えると、量子論の解釈がおかしいと思うのは 当然だと思います。

ところが、これらの反論も、科学的とはいえない意見なのです。

誰も見ていない場所に、何かが存在するという証拠もないからです。
誰も知らないのですから、そこに何かがあるとするのも、科学的ではないのです。
科学的な基準によると、反論するには、その理論が 間違えているという証明が 必要になるからです。

とはいえ、私も、人間が知らない場所に、何も存在しないとは思っておりません。
誰も知らない洞窟の中に、無の空間が広がっているわけではないと思います。

また、科学の世界でも、素粒子のようなミクロの世界の法則が、現実のマクロの物質世界にも通じるのかという疑問は解決されていません。

量子論の発見に、大きな貢献を果たしたアインシュタインでさえも、「誰も見ていなくても、月はあるではないか」 と量子論の解釈には反対の姿勢を見せていました。
もちろん科学の世界でも、自分が違うと思う理論に異論を唱えたり、議論を交わすことは自由であり、間違えた行為ではありません。

しかし、この言葉に象徴されるように、アインシュタインのような天才でさえも、
五感の域を超えるところまで、思考が及んでいなかったことが見えてきます。

科学でいう観測や実験、検証などは、あくまでも人間が自分で自覚できる「五感」で感じる「意識下」での判断に過ぎません。
でも人間が認識できない「無意識」の領域もあります。無意識の奥には、人類全体の記憶もあるはずです。
だから「意識を向けたら物質化する」という 意識とは、人の五感の「意識」を超えた、もっと全体の生命の「意思」のようなものなのではないでしょうか。

だから、過去に人類が月を意識している以上、夜空に月はあるのだと思います。

ただし「ずっと在り続けるか」は 別問題で、素粒子の性質のように、現実世界に現れたり、消えたりしている可能性は十分に考えられます。もちろん五感で感じられるレベルではないと思いますが・・・。

UFOやUAPは存在するの?

ここで少し、UFOと宇宙人の存在を考察してみましょう。

UFOとは、未確認飛行物体のこと。宇宙人の乗り物という意味ではありません。
最近ではUAP、未確認異常現象という言葉も一般的になってきました。物体とは限らず、広範囲な可能性を表す言葉です。

私たちが知る宇宙は、こんなにも広大なので、生命体のいる星が、地球だけと考えるには無理があります。
宇宙人の可能性は、決して否定できませんが、UFOの存在が自然現象の一部であったり、もしくは私たちが知らないだけで、人間が作っている可能性もあるし、未来の人類の乗り物かもしれません。

ところが、ここまでの想像は、所詮は、私たちが現実世界と感じている、三次元の世界の常識に過ぎません。
別の次元にだけ存在する生命があるのかもしれないし、別の次元のものがホログラムのように映っているだけなのかもしれません。

そして人類の誰かが、未知の存在を意識することで、今まで見えなかったものが、突然 ずっと在ったかのように三次元の現実世界に現れる可能性もあると思います。

これら全て、科学では証明できませんが、「絶対に有り得ない」ことも証明できないのです。

ただ確実に言えることは、三次元の常識だけで考えていても、答えには近づけないということ。
そして真実を思考することは、決して無駄なことではなく、
見方が変わることで、現実の受け取り方も変わってきて、ひいては「生き方」そのものが変わってくることもあるはずです。